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あの青い草原の上で 52(最終)話

終わりました。テウンさんがとっても凄く良い人で、苦労を学びの場として捕えている。イイヒトすぎて困ったことになったり、迷惑かけたりするけど、チャンと見ててくれる人もいる。
そして、テウンさんが凄く良い人なのは、彼自身が過去に人を傷つけたという悔恨があるからなんですね。テウンさん本人の語りでしかなかったけど、若い時は悪くて、父親にとても迷惑かけたっていう後悔がある。
そして、彼の生きざまが、テウンさんの母オッキや、ハラボジの大きな罪の問題にかかってきます。罪を犯した人間の苦しみ、恨み続けて生きることの苦しみ、赦すことで再発見される美しい思い出。オッキさんが、テウンさんから赦されても自分で自分が許せず、だからこそハラボジも許せないという気持ちを持っている。でも、テウンの赦しをとおして、ハラボジを赦そうという気持ちになる経緯はとても良かったです。
復活」「魔王」のキム・ジウ脚本×パク・チャンホン監督作品。ホームドラマなんですが、根底に流れる「赦し」の過程を描く姿勢は共通したものを感じました。

テマン×スノのパートは、ちょっと詰まらなかったかなあ。献身的な愛が恨みを溶かすというパートなんですが、スノがちょっとしつこすぎた。


ハラボジ死去。娘二人は、父親を苦しめたと大泣き。エランさんなんて、事情を聴いた後にじっくり話す時間もなくて。謝罪する機会を与えれば良かったという悔恨が残ります。
オッキさんがジョンナンに「一緒に荷を下ろそう。あなたも重荷だった。私も恨んでいるのは辛い。楽になりたい。もっと前に許すべきだった。」と語ります。ジョンナンは何も言えなくて、ただ謝罪するばかり。オッキは「ヨノをテウンにくれた。ヨノはお金には変えられない子。それだけでありがたい」と語る。

テウンさん、「一緒に生きる」という意味でヨノの子供にハンギョルという名前をつけました。生きようとしてくれるようになって本当に良かった。

テウンさん手術。本当は入院前に皆で食事でもって思ってたけど、倒れちゃって緊急入院。手術の前に、自分の鼓動を聞かせて「心配しないで」って言うテウンと、「心配なんかしてない」と言いながらポロっとなくヨノ。

しかし、手術前日まで新人社員のためのスピーチを行ったりして、「約束だから」とか言ってる場合かあ~。でも、いい話なんだ。「働くことの意味を教えてくれた市場の人(って、一話で見せてたな)などとの触れ合いを通して、豊かな人生のあり方を知った。辛いこともあるとおもうけど、人に対する希望を失わないでほしい。自分に対する希望を失わなければ、奇跡は起きる。この世に理由なく生まれたものはない。辛いことに出会っても堂々と歩いてほしい。皆さんを待つ人がどこかに必ずいる。私も希望を持って歩む」と・・・。がんばれテウンさん。

その場で倒れちゃったりして、どうなる事かと思ったよ~。ヨノが、プレゼントした夢の家のジオラマを持って行って励まそうとするんだけど、ジオラマにはテウンさんの手紙が。「君に出会ってから、僕の人生は喜びに満ちていた。こんな奇跡があるなんて。ありがとう」と。
手術室に向かうテウンに、ヨノが「愛してる」の手話をやって、それは流石に泣けたね~。

スンミンとエラン。「大丈夫。父が亡くなっても何も変わらない。」と言ってるエランだけど、泣いてしまう。後悔しないように素直に生きるって言って、エランからスンミンにプロポーズ。可愛いねえ。

テマンは仕事も決めて、「大丈夫だから留学しろ」ってスノを送り出します。

で、後日談。ヨノは病院から帰宅。息子のハンギョルは大きくなって、スノは留学から帰国。家族も仲良くやってる様子。エランとスンミンは結婚してエランは出産です。お似合いだね~。
で、テウンさんはどうなったんだ~と気を持たせたところで、最後に「あの青い草原の上」の家でテウンさんとヨノ。絵にかいたような幸せで、ホント良かったよ~。
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| あの青い草原の上で | 19:17 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP

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伝播していく想い(魔王を考察する)

韓国版・日本版を見ながら、改めて「魔王」のテーマについて考えてみたいと思います。
思い切り韓国版最終話までのネタばれなので、ネタばれが嫌な方は、ここで止めてください。


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| 魔王(日本版) | 20:34 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP

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神曲について(ドラマ魔王に関連して)

神曲〈1〉地獄篇 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)神曲 上   岩波文庫 赤 701-1やさしいダンテ〈神曲〉4話では、ダンテの神曲が出てきました。概要については、ウィキペディアで読むことができます。
ウィキペディア「神曲」のページ

地獄篇(Inferno)煉獄篇(Purgatorio)天国篇(Paradiso)三部構成。
三行を一連とする「三行韻詩」であり、各篇は3の倍数である33歌から構成されていることになる(地獄篇は序章となる1歌を加えた34歌)。キリスト教における「三位一体」を文学においても表現しており、引用された地獄の門でも、三位一体である「父と子と聖霊」についての節がある。ドラマ中で、この図書が分類番号333に置かれているというのも、この「3」という数字へ意味づけです。

あらすじはこんな感じ。
西暦1300年の聖金曜日(復活祭前の金曜日)、暗い森の中に迷い込んだダンテは古代ローマの詩人ウェルギリウスに出会う。彼に導かれて、地獄・煉獄・天国と遍歴。
地獄の九圏を通って、地球の中心部、魔王ルチフェロ(サタン)の幽閉されている領域まで至る。
そこから、地球の対蹠点に抜けて煉獄山にたどりつく。煉獄山では登るにしたがって罪を清められていき、煉獄の山頂でダンテはウェルギリウスと別れることになる。
ダンテは再会した永遠の淑女ベアトリーチェの導きで天界へと昇天し、各遊星の天を巡って至高天(エンピレオ)へと昇りつめ、見神の域に達する。
原題はLa Divina Commedia 神聖なる喜劇(ディヴィーナ・コンメディア)。悲劇ではなく結末に救済されることを意味する。
ファウスト同様に、地獄を見た後に「救済」が与えられています。ファウストも、神曲も「作者」が主人公と言ってよい作品だと思います。そして、彼等は未来の救済を信じ、それを文学にした。


今回、引用されたのは「地獄の門」についての一節です。地獄篇の第3歌。いよいよ地獄へと踏み込んでいくダンテの前に現れた地獄の門。

ドラマでは 冒頭の一節が次のように訳されています。これ、出展が分からないんです。韓国版の日本語字幕と一緒ですね。韓国版ドラマで、イタリア語から訳されたものを、日本語に訳したのかな?
私の持っている山川訳と比べると、「ここを通り過ぎて、俺の所にやってこい」というメッセージが強く打ち出されているように感じますね。

(ドラマ「魔王」より)
苦悩の都に向かう者、我を通り過ぎよ
永遠の苦痛に向かう者、我を通り過ぎよ
魂を失った人を訪ねる者、我を通り過ぎよ


(岩波文庫版の山川丙三郎訳)
我を過ぐれば憂ひの都あり、
我を過ぐれば永遠の苦患あり、
我を過ぐれば滅亡の民あり

義は尊きわが造り主を動かし、
聖なる威力、比類なき智慧、
第一の愛我を造れり

永遠の物のほか物として我よりさきに
造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、
汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ

つづく一節では、父=聖なる威力、子=比類なき智慧、聖霊=第一の愛、と三位一体の神が地獄の門を作った事が説明されています。


これを元に、ロダンがブロンズ像を作りました。作品は未完です。有名なの「考える人」も、この門の上で、門を通過する人々を見据える存在として作られました。これは、地獄をめぐり、罪人たちを見ることになる「ダンテ」自身を象徴している存在です。

ドラマ中では、「目を閉じた彼が目を開くとき、審判が行われる」という説明がなされます。多くの罪と悪を見つめつづけ、自らを「審判者」と定義する弁護士の意志が見受けられます。
弁護士は「審判者」と自分を定義しています。それはキリスト教におけるロゴス=(言葉、論理)の象徴=キリスト(三位一体での子)への挑戦でもあるように思います。人間社会での法でも、神との律法の誓いにおいても、刑事が罰せられてないように見えることに、彼は疑問を持っている。自ら「論理」を創造し、それに従って審判を行う。だからこそ、弁護士はルシファーに模されている。

ロゴスは、ミュトス(物語)と対比する言葉。空想し物語る言葉ミュトスに対して、論証する言葉ロゴスがある。しかしながら、弁護士が行おうとしているのは、本当に「理性」「論理」によるものなのか?決してそうではない。そこに、弁護士の誤算がある。


このドラマで、「ダンテ」となり地獄の中に踏み出すのは刑事。そして、その最下圏・第九圏裏切者の地獄 -「コキュートス」(Cocytus 嘆きの川)と呼ばれる氷地獄で待つのが、「ルチフェル=ルシファー=サタン=魔王」。コキュートスは「裏切りものの地獄」で、裏切りが最も重い罪だと定義されている。
弁護士自身が、自分は審判者であると同時に、罪人ルシファーであると思っていることが、この引用から分かります。では彼の罪「裏切り」とは何か?
兄弟を救えなかったことか?真実を明らかにするのを諦めてしまったことか?神を信じなかったことか?日本版では、どのように作ってくるのか?興味深く見つめて行きたいと思います。

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| 魔王(日本版) | 19:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP

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魔王(日本版)リメイクについて 3話まで見て

私は、日本版はこれはこれとして良く出来たドラマになっていると思います。しかし、「これを見てオリジナル(韓国版)を判断しないでほしい」というのが、オリジナルの一ファンとしての願いです。ドラマのカラーがかなり違うものになっているので・・・。
今回は、二つの気になる点について、考えてみたいと思います。改変された部分に、どんな意味を持たせられるのか?注目している点です。

1.「弟が殺された」という改変
私は、「兄が殺された」→「弟を殺された」という改変に非常に疑問を持っています。
これは「弱く小さきもの」が「庇護者を失った」物語だからです。だから、「気にかけてあげれば・・・」という大人が沢山出てくる。それは、スンハ(弁護士)だけでなく、事件前のオス(刑事)に対しても・・・。

スンハは、貧しいながらも、母や兄に守られ、幸せに温かく生きていた。
オスは、裕福ながらも、「利害関係のある友人」や「自分を否定してばかりの父」によって、冷たい人間関係の中にいる「吊るされた男」。
事件前からオスは「気にかけてくれ」と叫んでいましたが、事件をきっかけに「俺の言葉を聞いてくれ」と直接的な訴えを四方八方に発します。しかし、彼が訴えたのは「大人たち」です。その壁を越えて、「スンハ」という少年に話しかけることはできなかった。
オスに呼びかけられた大人たちは、彼の声に耳を塞ぎます。しかし、一人の刑事が答えます。「正しく生きろ」このたった一度の出会いが、彼を刑事にしていきます。何も持たなかったオスにとっては、その一言に大きな価値があった。

一方のスンハは「叫ぶ」ことがなかなかできなかった。これまで、叫ばずとも与えられるのが当然だったのですから、当り前です。そうしているうちに、何もかもが奪われてしまった。彼は、怒りの対象者オスではなく、「大人たち」の一人オスの父に向かって叫びます。それは、怒りの発露というよりも、庇護者となりうる権力者への「助けてくれ」という叫びだった。しかし、それは拒絶された。彼は表現手段を失われた。
次に得た「庇護者」も人生から奪われたとき、「復讐」という表現手段が目の前に浮かんだ。その道を選択してしまった彼は、その後「優しい庇護者」に恵まれるが、彼は道を戻らなかった。
スンハの復讐は、非常に子供じみています。その視界の狭さ、思考の広がりのなさ、ゲームじみた手法、社会全体への恨み。「少年のままのスンハ」らしさが反映された犯罪と言えると思います。

オリジナルはこういう話です。だから、彼が「弟」であったことは重要な意味を持ちます。しかし、日本版は「大人たち」が非常に存在感を薄められていることからみても、「違う物語」を紡ぐつもりなのかもしれません。しかし、事件そのものをそのまま利用している以上、「弁護士の幼さ」は切り離せません。どう着地させるのか、身守りたいと思います。

2.「説明的」になった演出・脚本
スピード感は増してます。上手く「事実を省略」している部分もありますが、「説明」することでスピードアップしている部分が大きいように思えます。オリジナルは比喩とエピソードで語るのですが、日本版は「○○という設定になってます」というストーリー説明の占める割合が大きい。
例えば「A」を表現するのに、オリジナルは「A」を囲む3点のエピソードを描くことで「A」を浮かび上がらせます。その点は、別のBという事象を書く役目もしている・・・という感じで、すべてが絡み合って世界を作ってます。
日本版は、AだからBという結果にという直線的な表現になっているように思います。そのストーリー展開を見れば、そこから類推できる心情というのはあります。しかし、この直線的な表現では、「単純すぎる」気がするのです。

演出にしても、とても直接的というかベタですよね。オリジナルの、象徴的演出や弁護士と刑事を交互に映して対比させる手法などを使ってはいます。しかし、サスペンスとして盛り上げるための過剰なズームアップや音響は、ちょっと笑ってしまいます。笑ってほしいんだろうな~と思うので、狙いはハマってるし、「上手いな」とニヤリとしながら見てます。つまり、作り手が狙って「簡略化」してるということは分かります。

脚本のことに、話を戻します。日本版は確かに「事件の顛末」を省略していますが、それは「(本質は何かということは)言わなくても分かるでしょ?」という作りではないと思います。「時間がないから簡単に要点だけ説明します。細かい矛盾は気にしないでください」という「説明」です。
オリジナルは、劇中でも言わせているように「細部が全体を表現する」という構造のドラマなのに対して、非常に説明的で余白のないドラマになっています。そして、事件そのものも時間短縮のために変形させてしまったために、説明すればするほど「変形によって生じた矛盾」が目に付き始める・・・。
難しいですよね。放送時間という絶対的な問題があるので、本当にリメイクは困難だと思います。アチコチが綻びを生じている・・・。スピードと勢いで突っ走るのか、この綻びを意味あるものとして提示出来るか?
結末まで見ないと分からないので、ここも注目ポイントとして見守っています

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| 魔王(日本版) | 14:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP

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ストック 君に贈る花言葉 20(最終)話

ありがちな設定、優しすぎる人々の韓国ドラマでした。最終回「神は全てを奪うことも、与えることもない」というのは、キム・ジウ作家らしい言葉だなと思いました。


意匠権の弁護をスジョンが引き受けてくれた。久しぶりに「証人に」ってことで会いにきたスンジェ。君が盗用したと責められるかもしれないけどって心配するソンジュ。
「君が幸せになることが、皆の幸せになると忘れないで」って、スンジェは珍しくいいこというな。

ウヒョクは、会長に「デザイナーはヨンジュなんだ。他に頼る人が居なくて。ハヌルというキャラクターだ。」と経緯説明。「もしも、わしがあの子と逃げろと言ったら?お前が望むなら、そうしても良いよ」といいだす会長。遅いよね~。「父さんの傍にいる。それが、父さんもヨンジュも失わない唯一の方法だ」ってウヒョク切ない。

ソンジュはハナムをお迎えに。心を開かないハナムだけど、事故りそうな時に助けてくれて、ハナムの方から手をつないでくれた。

シニのお父さんが亡くなったと連絡がヨンジュのところへ。これで再会したシニとヨンジュ。シニが苦しみ続けた親の問題。「最後まで心配してた。謝ってた」って言われて、シニ号泣。「母さんが亡くなった時はミニョクさんを、ミニョクを失った時はハヌルを残してくれた。神は全てを奪うことも、与えることもない」と、自分の経験を語って励ますヨンジュ。
シニは戻ってきた。ハルモニに「託児所を開こうかと思ってるんだけど・・・」といわれて、「私には無理」とか言ってるけど、あんたは優しい子だから向いてるよ。
裁判の話をハルモニに聞いたシニ。ギョンチョルがやったと直感。「人生をやり直そうよ」って説得。訴えられないように頼むからって言っても、難しいよね。

裁判では、「義父を尊敬してたけど、沢山傷つけた。少しでも償いたかったので、キャラクタ―で助けたかった。だから、ハヌルの名前をつけた」と証言したヨンジュ。未婚の母というところを突いてくる相手側。
室長が、ヨンジュの味方になって、「ゼウスではハヌルをみたのは遅かった。」と証言してくれた。その上、ギョンチョルまで証言してくれた。

ミニョクの墓参り。それぞれに訪ねるスンジュとヨンジュだけど、互いの存在はそこに感じ取れる。
ソンジュ母に、ウヒョク父が話をしてくれた。「反対したから、息子を傷つけた」という反省の弁は、ソンジュ母の気持を少しは溶かしてくれたみたいだ。
そして、ヨンジュも家に迎え入れて、嫁と呼んでくれて、「すまなかった」と言ってくれた。
シニは「まだ友達だ。だから、申し訳ないと思わないで。一人でしっかり歩いてみる。その先に再会の場があったらいい」ってウヒョクに。
ソンジュは海外へ。でも、ヨンジュを待つ気持ちに変わりはない。「雨の時必要なのは傘だと思って、ヨンジュの傘になりたかった。でも、必要なのは傘じゃなくて、一緒に雨に打たれながら歩いてくれる人だ。俺は一緒にはあるけなかったよ。だから、傘はしまう」って、やっと長年の思いを捨てる気になったか。
ヨンジュはストックの花ことばのカードをまた見ています。ウヒョクも想い出の学校に。スンジェを待たせるなというウヒョクに、「ありがとう。いつも味方になってくれて、愛よりも家族がどんなに大切か気付かせてくれた」って、来世では家族でなくて・・・って約束を。

スンジュとヨンジュは、高校のミニョクの木の下で再会。ウヒョクは一人旅に出て、シニに会いに。
これでハッピーエンド!ではないけど、未来に希望を見れる終わりでした。

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| ストック~君に贈る花言葉 | 19:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP

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ファウストのこと(魔王に関連して)

ファウスト〈第1部〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)ファウスト〈第一部〉 (岩波文庫)ゲーテとの対話 上   岩波文庫 赤 409-1

魔王」(韓国版)は細部まで考えられた脚本で、分析に耐える強さを持っており、深く考察してみる価値のある作品だと思います。日本版を見たことで、オリジナルの脚本が、いかに巧妙にいかに繊細に作られたものかを、再確認しました。

私が虚構作品、特に「演技」の要素がある舞台や映像作品に求めるのは、いかに「矛盾を作るか」という事です。物語には、「良い飛躍」が大切です。演劇において、それは「矛盾」を「肉体を持った役者」が飛び越える瞬間にあるような気がするのです。そこに美しさというか、物語の奇跡があるように思います。
そして、「魔王」は、その「矛盾」こそが物語を生むということを、非常に強く意識された脚本のように思えます。日本版ではじめて「魔王」に接した方々のなかに、「サイコメトリー」という超能力を使っていることや、あまりにも偶然に事件が成功することに、大きな疑問を持ったかたが沢山いるようです。
たしかに、日本版ではこれらの問題の取り扱いが、粗雑な印象を受けます。原作では、これらのアイテムも非常に慎重に取り扱われ、「運命」というものを取り込むことに成功しています。これは、人生や、神について考えるときに、避けては通れない問題です。
引用された書籍についても、この物語をひも解くためのキーワードが沢山盛り込まれており、物語の飛躍を助けてます。今回は、「ファウスト」について、考えてみたいと思います。


さて、本題に入りましょう。日本版2話でも引用された、、18-19世紀ドイツの文人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの「ファウスト」。読んだことがなくても、題名だけは知っている人も多いでしょう。私は、グノーのオペラ「ファウスト」の音楽から入り、翻訳を読んだのが始めてでした。一部はまだしも、二部は私のような人間には読みこなせません。解説付きでも???です。
翻訳は沢山出ています。初めて読んだのは、高橋義孝訳の新潮文庫版でした。「魔王」で引用されたので、読みなおそうと集英社文庫ヘリテージシリーズの池内紀訳を購入して読みました。やっぱり、2部が難解です。

2話で引用された「すべてのものが一つの全体を作りあげ、一が他と響きあい作用しあう」は、ゲーテ第一部の始めの節「夜」に出てくる文章です。池内訳では
すべてがかたまりあって一つにもなれば、一つが別の一つとかかわり合って動いている(悲劇 第一部夜)
(集英社文庫ヘリテージシリーズ 池内紀訳)
と訳されています。
どんな場面で語られているかを説明します。
ファウストは、あらゆる学問をし、
この世をもっとも奥の奥で動かしているものは何か、それがしりたい(悲劇 第一部夜)
(集英社文庫ヘリテージシリーズ 池内紀訳)
と熱望しています。
復活祭の前夜、錬金術における大宇宙(マクロコスモス)のしるしが書かれた書物に見入り、そこから自然の力を感じ取った時に発した言葉です。しかし、マクロコスモスの力は、ファウストには何の関係もないものに感じます。そこで地霊のしるしに見入り、親しみのもてそうな霊を呼び出しますが、そのパワーに圧倒されます。
その後、自分よりより無知なワグナーの訪問を受けます。その後、再び一人で地霊に思いをいたし、「どれほど知りたいと熱望しても、それは叶えられない夢なのだ」と痛感し、自殺を決意しますが、天上からの天使達の声により、思いとどまります。この段階のファウストは、まだメフィスト(悪魔)に出会ってはいません。「人知を超えたすべての物をみたい」これは、やはり大それた願いです。大きすぎて、その願いに飲み込まれてしまうそうなファウスト。
このすっかり疲れきったファウストについて、神とメフィストが賭けをします。神はメフィストを憎悪してはいません。ゲーテの世界観では、悪ですらも世界を構成し創造する要素の一つであるという認識があります。
人間は何をするにせよ、すぐに飽きて休みたがる。だからこそ仲間を付けてやろう。あれこれ手出しをして引きまわす悪魔が相棒だ(天上の序曲)
(集英社文庫ヘリテージシリーズ 池内紀訳 )
と言って、メフィストの持ちかけた賭けに応じます。神は
良い人間は暗い衝動にかられても、正しい道をそれなりに行くものだと、ぼやきにこないかな(天上の序曲)
(集英社文庫ヘリテージシリーズ 池内紀訳 )
と言って、悪魔という試練を与えながら、ファウストが悪魔に取り込まれてはしまわないと信頼しています。
このような経緯で、メフィストはファウストに近づき、契約を交わします。そして、ファウストはまず若返りの薬を飲んで、グレートフェンと恋をする一部が展開されます。


このグレートフェンは、無垢な少女です。「魔王」ではサイコメトラーがこのグレートフェンをイメージさせる役となっています。そして、この少女は、ファウストの「罪」となって行きます。
ファウストとの恋に夢中になり、眠り薬を母に飲ませてはミスで死亡させてしまい、兄はファウストとの決闘で死亡、更にファウストに去られて未婚で身ごもるという罪に耐えかね、嬰児殺しという大罪を犯してしまう。ここまで酷い状況になって、やっと彼女を牢獄から救おうとするファウストですが、彼女はひたすらに贖罪と救いを求め祈ることに専心します。そして、断罪の瞬間に、神はグレートフェンに許しを与えます。
彼女にはモデルがいます。一人はゲーテの恋人フリデリーケ・ブリオンです。結婚間際まで行きましたが、ゲーテが突如逃げ出してしまいました。もう一人は、当時、嬰児殺しで処刑されたスザンナ・マルガレーテ・ブラント。行きづりの男に酒を飲まされて妊娠し、嬰児殺しへいたりました。自分がフレデリーケになしたことは、彼女を嬰児殺しにする可能性のあることであった・・・。この悔恨が、グレートフェンという女性を作り上げています。
さて、ファウストはこのグレートフェンの顛末に深く傷つきますが、アーリエルが癒しを施します。それは「忘却」です。グレートフェンのことについて、ファウストは大きく傷つきははしましたが、その代償を払うでもなく、2部の世界に入って行きます。2部は、ホントに説明など出来ない作品です。ファウストは空間も時間も自由に数々の経験をしていきます。やがて、人生の終焉の時が近づいたファウストは、思わず悪魔との契約の言葉を口にしてしまい、悪魔に取り込まれるかに思えます。しかし、その時「かつてグレートフェンだった女性」の願いにより、ファウストは救済され、天上へと登って行きます。


このあらすじを見れば、物語構造上、刑事=オス=芹沢はファウストであり、弁護士=スンハ=成瀬はメフィストであるとするのは容易だと思います。ファウストは罪深く、そしてそれを忘却し、メフィストによって鼻面を掴んでかき回されて、多くの経験をし、多くを悟る。グレートフェンの兄と争って”誤って”相手を殺してしまう点など、類似点も多く見られます。捜査という謎解きで「この世に何が起こっているか?」と問い続ける姿は、ファウストの根源的な欲求と合致していると言えるかもしれません。このドラマの「ミステリー」の要素は、「問い続ける姿」を表現するのに適していたと思います。
ファウストに「反省」や「謝罪」の具体的な言葉はありません。ファウストは「思考」や「言葉」だけでなく、「体験」「行動」を通して、「世界とは何か?」と知ろうとするのです。そして、人生の終焉のとき、彼はグレートフェンに救われます。「世界の真理を追及しとうと、ひたすらに行動しつくした」姿が、神への祈りのようなものだったからではないか?と、私個人は理解しています。

弁護士=スンハ=成瀬はメフィストの役目をなします。しかし、弁護士はファウストにも似ているように見えるのです。それは弁護士の復讐計画の多くが、「神への質問状」のように見えるからです。そこに偶然の要素を加えて置くのも、「偶然」を「神の意志の表れ、神からの返答」と認識しているからだと思います。「どうして、この世をこのようにお創りになった?」という切実な問いが、弁護士にはあります。弁護士と刑事の大きな違いは、二つあります。まず、刑事=オス=芹沢=ファウストが自ら体験するのと違い、、弁護士=スンハ=成瀬=メフィストは傍観者です。もう一つは、「どのようになっているのか?」という事実をしりたいファウストに対して、弁護士は「どうしてなのだ?」と理由を問うている点です。

この問いに、神は答えません。しかし、刑事=オス=芹沢の「生きたい。生きていて欲しい。」という願いは弁護士を変えていきます。人の命は有限で、死だけは万人に平等です。その厳然たる現実を目の前にしても、人は「生きたい」と願う。その醜く、美しい姿を前に、人は問いを失う。問いを失った瞬間、神は許しを与える。
ファウストとの関連を、私はこのように読みました。

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日本版「魔王」を見る前に

日本版を見る前に、韓国版「魔王」をどのように読み取ったか?ということについて、私なりにまとめておきたいと思います。


韓国版「魔王」は「復活」というドラマを作ったスタッフ(パク・チャンホン監督 キム・ジウ脚本家)と主演(オム・テウン)が組んで作ったものです。
「復活」では、「弟を殺して得たものを元に戻してもらう」という復讐を行う男の話です。それを書ききった人たちが、今度は「復讐される側」の視点も加えて、その先を描いてみようとした作品。
両作品とも、「復讐」はあくまでもモチーフであって、「罪とは何か」を問うことで「生まれながらに罪を背負った人間の本質」に迫ろうとした作品です。特に「魔王」は非常に宗教色が濃く、古典悲劇のフォーマットが取り入れられています。

私が「復活」を見た時に残った疑問が、「真犯人」の問題でした。
ガンヒョクの復讐計画は、真実の犯人ではなく、表層で踊らされている犯人に発動しました。表層で踊った人物たちが陰謀によって得たのが、「財産」「名誉」であるために、復讐には周到な計画が必要で、その計画は見事すぎるほどに見事に結果を弾きだしました。
彼は殺人の代償として、命は求めなかった。失われた命が「金」や「名誉」になったことが許せなかったのだと思います。命は、そんなものに代えられるものではない。だから、命と引き換えにしたものは奪う。しかし、命は奪わない。全てを元に戻すという儀式を通して、亡くなった命の再生を願った。それは叶わないことではあるけれど、彼にはその儀式が必要だった。
陰謀で「愛」を得た真犯人から「愛を奪う」には、周到な犯罪を犯す必要はなかった。「醜い真実の姿」を突きつけるだけで、自ら破滅の道へ進んで行った。
しかし、真実は真犯人だけでなく、多くの関係者を傷つけました。「復讐は何も生まない。」ということは簡単だけど、それは「真実は何も生まない」ということにつながってしまう。「真実は残酷だが、真実は悪なのか?」という命題が残ります。

もうひとつ、復讐する側のガンヒョクと真犯人に共通することがあります。それは「他人の人生を生きた」こと。
真犯人が、光り輝くゴナに対して抱いた「憧れ、妬み、僻み、愛」は、非常に複雑で醜く、だからこそドラマチックなものです。この他人を羨む気持ちが、真犯人を「自分を捨て、他人の人生を生きる」道へ進ませます。そして、皮肉なことに、復讐者ガンヒョクも、「自分を捨て他人の人生を生きる」ことを選択します。つまり、始めから、復讐者ガンヒョクは、犯人のたどった道を進んでいた・・・。

「復活」の次に作られたのが「魔王」です。魔王では罪を抱えて生きる刑事が主役で、復讐が殺人という形で現れる点が大きく違います。
刑事は、過去の悪行で、「正しく強く眩しい」輝ける人間を見て、自分の闇を暴力という形で爆発させ、信頼を失い、自らを暗闇に落とした。
刑事は罰を望んでいたでしょう。罰の先には許しがあるから・・・。しかし、大きな壁に屈してしまった。彼は成長して刑事となり、「あの時、自分を罰してくれなかった法」に挑むようになります。
刑事は、「奪った命のように生きる=他人の人生を生きる」ことを自らに課して生きているように見えます。「正しく生きたい」という願いが真実かどうかは、他人には分からない。そして、失われたものは元に戻らない。
そのことを突き付けるために、「自分を捨てた」もう一人の人物=弁護士が復讐者となって戻ってきます。「お前は残虐な人間の筈だ。お前は自分を捨てたのではない。お前は他人の人生を奪ったのだ」という告発とともに・・・。

刑事を極限状態に導き、残虐な本性を暴くための設定として、過激すぎる復讐という悲劇が用意されています。今度は、生贄としての「命の代償」を求める弁護士。復讐者である弁護士は「刑事を神の審判に招待する役」であり、「神の与える罰・試練のメッセジャー」として機能しています。
「光は失われている。お前は光にはなりえない。また誰かを傷つける」という残酷なメッセージがもたらされる。とことんまで希望を奪われ、追い詰められたときに、彼が何を叫ぶのか?彼の真実の叫びとは何か?これが、作品のテーマです。
それほど斬新な視点や結論がある訳ではないですが、キチッとした悲劇に仕上がっている作品だと思います。

で、日本版に期待すること↓

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| 魔王(日本版) | 20:31 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP

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